8:00過ぎに起き出し、テーブル周りを片付けながら、雑誌を読んだりして、午前中高円寺に買い物。
今日は久しぶりに一日大和町。
暑いので、窓を開けて風を入れ、だらだら過ごす。
午後阿佐ヶ谷へ買い物に行ったついでに、事務所の改装をやってくれた中学の同級生の松岡工房で書棚をつくった、という阿佐ヶ谷の古書店「コンコ堂」へ行ってみる。
なかなかそそる品揃えで、3冊購入してしまう。
夕方、文庫本の「盲導犬」唐十郎著(角川文庫)を書棚から取り出して来る。
これにも「海の牙」が納められている。
澁澤龍彦さんの解説を読む。
なんと素晴しい解説だろう、唐さんの世界をこのように書けるとは。
「貴種流離譚」引き合いに唐さんの世界を語り、最後に「唐十郎の劇は、いわば記憶喪失者のような人物たちが舞台の上右往左往しながら、ナンセンスでちぐはぐなやりとりを繰り返しているうちに、突然、そのなかの一人物が天啓のように、「そうだ、思い出したぞ、あれだ!」と叫び出すとき、電流のようなリリシズムによって舞台ぜんたいが貫通されるという、一見したところ複雑のように見えながら、じつはきわめて単純な構造を持つところの劇である。唐十郎のたくみな作劇術によって、私たちの集合的無意識が連続して小爆発を起すとき、ほとんど身をよじりたくなるようなロマンティシズムが場内を支配する。
電流のようなリリシズム、身をよじりたくなるようなロマンティシズム、切ないほどの甘美なノスタルジア、ーこんな美辞麗句を書きつらねながら、私はハムレットのように、「言葉、言葉、言葉」の空しさを感じている。もちろん、失われたもの、忘れられたもの、別れたものは、要するに私たちの少年時代であり「母」なのだ、と簡単に定義してしまっても一向に差し支えないのである。
私は、つい調子にのって、唐十郎の芝居の抒情性をあまりにも強調しすぎたかもしれない。しかしながら、この広い東京に数ある劇団の芝居のなかで、私が最も素朴な観客のひとりになり切ることができるのは、状況劇場のそれを措いては他にないのだということを、最後にあらためて強調しておきたいと思う。」とまとまる。
これほど、唐さんの世界を享受する悦楽について、素直に書かれた文章を読んだことはない。
原子爆弾の被害を受けた長崎に近い玄海原発が、再開に向かっているニュースが流れる。