8:00前に起き出す。
曇りでとても寒い。
「少女仮面」について唐さんが書いた文章で、何かで読んだものが参考になりそうだったので、いろいろな本を開いてみるも、出てこない。
これは妄想か。
KIHの階段の詳細検討を続ける 。
12:00阿佐ヶ谷に買い物に出かけ、帰り道に、久しぶりに銀星舎へ。
二日にやってるかと前を通ったら、四日からと案内が出ていた。
ご主人と1時間以上話し込んでしまう。
気分転換に武満徹を聞く。
「マージナリア」の作曲家の言葉より。
「私は、音と水というものを似たようなものに感じています。水という無機質のものを、私たちの心の動きは、それを有機的な生あるもののように感じ、また物理的な波長にすぎぬ音にたいしても、私たちの想念は、そこに、美や神秘やさまざまな感情を聞きだそうとします。(中略)
作曲という行為は、音にかりそめの形をあたえる、縁(ふち)づける、ということでしかないでしょう。それ故に途絶えることはありません。完成ということは、ひとつの擬態にすぎないと思います。(中略)縁づける、という私の行為の根底にある欲求が水のイメージとMarginarliaという言葉を結んだのかもしれません。」(『音を呼びさますもの』1985年)
そして、今読んでいる、「小説、世界の奏でる音楽」保坂和志著文庫本p151から。
「小説とはただの記号でしかない言葉をいろいろに組み合わせることによって、人と人との会話が本当にそこにあるかのような気持ちにさせたり、文字の中にしか存在していない(つまり存在はしていない)人物のことをかわいそうでどうしようもない気持ちにさせたりする工夫のことであって、読みながら起こる読者の気持ちの変化をあたり前すぎるほどあたり前の前提としているために、書き手も読者もそこにある文字がただの記号でしかないということを忘れがちなのだが、本に印刷された文字はつまるところ生命のないただの記号なのだ。
テンポよくいきいきと語られたり、話しの流れの中である言葉に出合ったときにふわっと体じゅうの力が緩むような気持ちになったりするために、言葉ないし文字に何か特別な力が宿っているような錯覚を持っている人がいるかもしれないが、文字そのものは譜面の上の音符と同じで受け手の気持ちに訴えかける響きは持っていない。」
この先、このような話しが何度か繰り返される。
「音」や「文字」を「床」や「壁」や「屋根」にしてみたらどうだろう。
物理的な存在になってしまう事が、建築と音楽や小説との違いなのだろうか。
しかし、音楽も小説も物理的な完成形として働きかけるのは建築と同じではないのか。
立ち去った後までひとになにかを喚起する「床」や「壁」や「屋根」もあり得るのではないだろうか。