昨晩は帰ってから、体を休めたのだが、なかなか疲れが取りきれない。
6:30からしばらく前からベッドの中で読んでいる、「オリエンタリズム」エドワード・W・サイード著 今沢紀子訳を読んで、7:00過ぎに起き出す。
冷蔵庫の製氷部分を掃除したら、氷が出来なくなったので、取扱説明書を探し出していろいろやるもダメのようだ。
9:00からワイエスの日曜美術館を見る。
ゲストに出て唄バイオリニストの五嶋龍さんの透明な完成と知性に、正直驚く。
生誕百年のワイエスの絵がアメリカで再び注目を集めているようだ。
様々な読み取りが出来るワイエスの絵が、これからの若い人たちに何を伝えられるか、と問われて、自分たちの若い世代は、瞬時に判断することが普通になってしまっている、時にはゆっくり物事を見つめることも大事ではないか、と言うことを、ワイエスの絵をみて感じる、と言うような話しをした。
これは、学生たちとの課題について、とても示唆的な言葉でだった。
阿佐ヶ谷に買い物に行き、その後武蔵野大学の後半の課題文の推敲。
昼に食事をしながらテレビを見たら、ビートたけしさん司会の番組で、北朝鮮の状況を鑑みた日本の敵基地攻撃能力の保有やニュークリア・シェアリングについて、自民党と民進党の衆議院議員二人と、幾人かで討論していたが、解釈論のやり取りのみで、こんな論議はまさに「ペンと剣」エドワード・W・サイード D・バーサミアン 中野真紀子訳の中で、サイードが言っている、テレビ番組の弊害でしかない、と思って見てたら、参加者のジャーナリストが日本が今まで築きあげて来た世界も認める平和を基盤にした判断について議題に上げても、誰ひとりとして話しを続けず、解釈論のゲームに戻ってしまうので、呆れてスイッチを切る。
やはりきちんと評論出来る知性のある人間と、先ほどの五嶋龍さんではないが、自分で考えられる人が大事であることを実感する。
当たり前だが、物事の判断に時間をかけることの出来ない現状は、自ら含めいまこそ自覚が必要だ。
午後は録画したドラマを見たり、ベッドで本を読んだりで体を休める。